quick notes #2。

いつになったら書くんだ、と突っ込まれそうなのでhttp://d.hatena.ne.jp/assa/20040620の続き。

まぁそんなこんなで「理論」と「感覚」の共存、なんてことばをレポートで理屈ぽくものを語るのに疲れた僕がぶちまけた感じな課題雑文を、ゼミ教官であるとこのJB先生に「優でも可でももってこい(不可は困るけど)」とばかりに提出した、てのが前回までのおおまかなアラスジ。

実のとこ当時はあのレポートを一種の里程標と思ってた気がする。折りよく「やりたい文章像、てのがようやく見えてきた気がします。」なんて書いてるし。あー恥ずかしい……。

言い訳交じりに言うと、当時の僕的には「大塚英志の物語消費論への反論/反発」として「ピアニシモな存在への感応」をどう解釈するのかがキーになってたのですよ。そんなで当時大学3年生だった僕は、そんなこんなな、例えばトリエンナーレで糸に対して感じたような「ピアニシモな感応」を語ることで反論を試みようとしたのですよ。そして、それを「いったりきたり」な文章で、思考の横断という形で以って書こうとしたのですよ。そしてこの文章を翌年のゼミに繋げ、ソツロンへと繋げようとしたのですよ。「やりたい文章像」てそゆ意味合いですね。まぁそれはさておき。


ところが流石は理屈が大好きドイツ人、JB先生はばっさりとした日本語で言ったんですな。「これは論文じゃありません。美術批評でもないと思います。ただ、日本人的な批評です。」的な。

日本人的、てのはJB先生風に言うなら「長屋的」な感じ。書き手が読者との共通項を探り、それに働きかける感じ。ハイコンテキスト、と言い換えても良いかもしれない。同じ文化的バックボーンの屋根の下に読者がいることを前提とした上での文章。よくJB師が『美術手帖』を眺めそんな「批評」の横行を嘆いていた記憶がある。「こんな批評はヨーロッパでは有り得ません。これはエッセイです。」て。エッセイと批評の中間、と僕が使う時、師のこのことばを僕は強く意識してたりする。


ところで面白いのは、そんな僕の文章を明らかに師は面白がって読んでた、てこと。「論文かどうかは置いておいて、面白いです。批評で卒業研究にしても良いです。」と僕のこのレポートを読んで、面白いと思う箇所と書きすぎてる箇所を数箇所指摘した後で言ってくれた記憶がある。結局、ここで気づく訳ですわ。これが批評じゃなかろうが、論文じゃなかろうが、理屈からずれてようが独りよがりだろうが個人的雑感だろうが、面白いと思わせたこと自体が重要なのかもしれない、と。第一、何より、違う屋根の下に住んでた人間に面白いと言わせることほど面白いことはないじゃないか。これを共感て呼んでよいのかもしれないし、そうでないのかもしれないけども。

で、実際こんなヤリトリの繰り返しと、僕の一次的な課題放棄(何も書けなかったから)数回を経て、例のソツロン制作が始まり今に至る訳ですわ。ソツロンがやや理屈ぽいのは、このドイツ人美学者を納得させる、先回りした説明が必要だったせい、てのもある。これを苦しみ書きながら、あーやっぱ批評エッセイで卒業したかったなぁ、と時たま思ったものだけども、なんだかんだで出来上がったものは、見事に論文のフォーマットを借りた論文とも批評ともエッセイともつかない、奇妙なバランス感覚ある文章だったりして、それを眺める度、あーあのとき書いた横トリの文章が布石になってたのだなぁ、と思うのであります。

長い話になったけど、要するに僕の批評観てのはこゆ大学時代の経験により培われてるわけで、サラリーマン向けの癒し系文章で批評という単語についてなにやかにや書かれてるのを眺めてみると、あーと頭を抱えたくなるんですわ。批評という概念と戦ったことのない人間に批評について頭ごなしに否定されたくない。てのもある。それは彼の言う「現場で戦ってる人間に頭ごなしに自分の価値観を押し付けてはいけない」て理屈と相似形を描いてる気するんだけど。いかがなものだろう。なんつかさ、同じ阿呆なら見止めなソンと僕は思うよね。

まぁいったりきたり。のらりくらりその日暮らし。気が向いたら続くけど、余りこんなエッセイ的な長噺、読みたくないですよね。たぶん僕なら読まない。