私は壁の小鳥のように。

誰か(というか斉藤和義)が「歌うことは難しいことじゃない。」と歌ってたけど、実際問題として、歌うことは、なかなかに難しい。と、世の中にある様々な歌を聴いてみると、そんな気がしてくる。

誰でも歌は歌うことができるから、てのがその理由だと思うのだけどもね。誰にでもできることを、誰にもできないような何かを以って実践することは、難しいてことかもしれない。生きるのが難しい、てのと理屈は一緒かもしれない。

虚飾を剥いで、できるだけ純粋な響きでもって声を出す、ということを実践できるうたうたいが信頼にたる歌い手だと思うのだけど、大抵の音楽屋に関してはなかなか巧くいってない。自分の素の声をさらけるてのは実際恐怖感を伴うことだったりする訳で、どうしても声を「つくって」しまう。つくった声、てのは周囲のウケが良いように聞えて、実は周囲と巧く馴染まないことが多い。逆に細いイトのような声に巧く肉付けされた声は、周囲の音と融合しやすい。気がする。

そんなこんなで考えてみると、良いうたうたいの条件てのが、何となく見えてくる。周囲の音を聴ける人間、音に気付ける人間、そして出す音をその気付きの根本に近づけられる人間。声が良いとか個性的とか音が正確とかそんなことは実際副次的(つか前提条件)なことだったりして、結局最期に「巧い」のとそうでないのと分かつのはその辺りなんじゃないか。と思う。

誰か(ていうか日本橋ヨヲコ)が「ホンモノとそうでないものを分かつものは<人格>だ」と描いてたけど、つまりはそういうことかもしれない。

歌うことは生きることによく似ている。耳をすまして、音を感じる。感じた音を自分の中に落とし込み、落とし込んだ音を歌心としてアウトプットする。その繰り返し。瞬時に周囲を理解する能力と、理解を咀嚼する能力と、それを実践する能力が求められる。しかもそこに「ことば」てひとりよがりになろうとしたら徹底的になれる、実にセンチメンタルな媒体が絡むからなお厄介だ。

誰か(つか車谷浩司)が「不器用に歌い切る。流れるように、歌い、歌え。」なんて歌ってた。不器用な歌に不器用なことば。もがき。そしてそれをなぞる美しいメロディ。思うに不器用に歌い切れなければ歌は研ぎ澄まされない気がする。小器用ではダメだ。音を出せてなぞれるだけじゃダメ。

幾ら響きが厚かろうが伝わらないモノは伝わらない。そもそもそゆ場合、伝わるのは演奏者の肥大化した自我、くらいなモノて気はする。そんなモノは掃いて捨ててしまえ。今聴くべきはそんな小ざかしい歌ではない。「息を吸って、吐く。」というプリミティヴな行為に、ある種の困難を見出し、それをありたけの純粋さで以って乗り越えようとする、そんな歌が僕は聴きたい。

……。……。

色々ポピュラー音楽を聴いてると、なんとなく自分の中でのヴォーカリストの評価基準、てのが見えてきて、なかなか興味深い瞬間があったりする。実際巧くても響かないうたうたい、てゴマンといる訳で、そゆひとと自分の中にビンビン響いてくるうたうたいとの違い、て説明しづらいのだけど、その辺り無理矢理説明するとこんな感じなのかな、と。実際、こゆことて音楽を聴いてるときでなく、自分で何らかの音楽を実践してるときに気付いたりするのだけどね。良いリスナーであるには実践者の苦労みたいなモノをまず体感するのが理想て思う。つか、評論家という人種に実践者崩れが余りに多過ぎるのは、その辺りの理由に起因するのではないか、と、つかこれは余談ですね。いやはや、ロマンチックに過ぎるかもしれない。まぁそれはそれで良い、とするか。