Naked Shuffle!

id:yskszk:20040505#p4 を読んでみたりして、こんな記事をふと思い出してみたり。

音楽ファンの多くは、iPodを購入したり『ウィンアンプ』や『iTunes』(アイチューンズ)といったジュークボックス・ソフトをインストールしたりした直後の感想として、曲のランダムなシャッフル再生がいかに楽しいかを熱狂的に語っている。

アルバムを最初から最後まで通して再生するといった、古臭くて堅苦しい聴き方をやめて、再生する曲を音楽プレーヤーに無作為に決めさせることが人気を集めている。そうすることで、思いがけない取り合わせの曲が前後して再生され、それが往々にして面白い効果を生むのだという。

 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040426-00000006-wir-sci

要するに何百何千曲何GBとPCに楽曲データ放り込んで聴くというスタイルが「シャッフルプレイ」に新たな価値を与えた、という記事。

実際僕も殆どこの記事のような方法でiTunesを活用してる。iTunesに放り込んだ曲数は840曲。容量は3.4GB。時間に直せば2日と14時間38分27秒。こんなの通して聴けるはずがない。そうなると特定の曲(或いはプレイリスト、アルバム[iTunes内においてもアルバム聴きという概念は活きてるのですよ。ラックから取り出してトレイ入れるというアクションが不要になりマウスクリックだけで代行できちゃう、てだけの話で。とそれはさて置き。])を聞きたい、というケースを除いてはランダムプレイを選択することになる。これがまた確かに面白いんだわ。「この曲の次にこの曲かよこのヤロウ(撃沈)」とひとりうちひしがれる瞬間てのは休日の我が部屋ではままある光景。そいう「予測不可能な楽曲間の横断」の大元てのは2日半という時間にまたがる膨大な楽曲データ数にある、て訳ですわ。2日半の中の5分(1曲)を切り取り次の5分へと接合する。時間の跳躍、そして接合。大げさに言うとまぁ大体そんな感じでしょうか。

そもそも音楽て時間芸術だから、これて結構重要なことかもしれなくもないかもしれないなんて思わなくもない。リッピングて行為は60分の時間を1分弱でPCの中に取り込んでしまう。ダビング、という行為(労働?)から時間を剥ぎ取ったことがこのような膨大な音楽ライブラリの保持への重要な鍵になるのは言うまでもないだろうし。(昔室井尚氏が「宮崎勤の部屋の中には彼の人生の数倍分の時間の媒体[空VHSテープ]があった」ことがメディアと時間の関係を語るには重要、という話を大学の講義でしてたけどそれとある意味近くまた遠い価値観念がそこに生まれてる気がする。)

で、ここで重要なのは1曲4分、という時間が、iTunesのシャッフルプレイにおいては、2日半という時間の一連の流れの中の4分、という枠でなく、「4分/2日半」という断片=確率的な枠に変容することの意味ではなかろうか。

なんてよく理解ってないことを走り書いてみたけど、コンセプチュアルなアルバムてのは「30〜80分」、オペラなんて何時間という時間を1つの流れとして捉えてる訳だけど、シャッフルプレイにはそんな概念は通用しない、という理由説明にはなるかもしれない。ともあれこれはどちらが音楽聴取のあり方として王道とか正しいとか邪道とか間違ってるとかではなく、メディアの変容における音楽消費者の音楽消費形態、及び価値観の変容自体の問題である。てこれいかにもメディア論的な見地かもしれない。「個人的には――といっても、多く頑固オヤジの気持ちを代弁していると自負しているが――オペラの全曲であれポップスのアルバムであれ、アーティストが決めた通りの曲順で音楽を聴くことは価値があると思う」というWIRED記事文章の「といっても、多くの頑固オヤジの気持ちを代弁していると自負しているが」というグチぽいモノローグがそんな状況を図らずも象徴していてちょっと面白い。

ついでに言うと、こゆ楽曲単位を時間の流れの一部としてみる傾向はCDシングル、タイアップ、カラオケの隆盛、等々、楽曲単位で音楽を消費する土壌(WIRED記事の言う「MTV世代」)が80年代後半から90年代にかけて築かれたこととは無関係でない、てのは、勿論大前提とは思いますが。あー相変わらずまとまりないずら。そんなこんなな思いつきの思考メモでした。