大丈夫かなメモライズ。

上掲記事に関連してぷちめも。サブカル知識(60〜80年代知識)の豊富な10代(や20代)について。

(情報を)引き出す側にとってはどうか。もっとも重要なのは、引き出す側にとっては情報が蓄積された順番や時系列的関係が存在しないことだ。検索というのは情報をヒットした順番にソートしてフラットに表示するテクノロジーだ。情報間の関係や序列はそこでは一義的には分からないようになっている。むろん後追いで色々調べたり確かめたりすることは出来るのだけど、それこそが問題で、つまり検索結果はそれだけで一つの歴史や物語を作ることが出来る情報であるわけだ。パリの旅行者にとってミシュランに載らないレストランが存在しないのと同じ意味で、検索結果にない情報は歴史の一部を構成しない。

http://www.socion.net/soul/index.php?itemid=311

データベース(データとしての知識の集積+消費+物語化)と時系列の関係。図書館に通う木下先生の話を引き合いにだした室井さんの話をふと思い出したり(つまりデータが「身につく」ためには時間、更には時間に付随する身体感覚=苦労が必要、という話だったと漠然と記憶。)、「面白いけど歴史性がない」と僕の初期レポートをばさり斬ったベルントのコメントを思い出したり。

そんなこと(歴史性)に関してさまざま言われたから僕はわざわざ70年代以降のJ-POPの流れを余り面白いとは思えない(けど「使える」)宮台読みながらお勉強した訳ですよ。

ここから「情報(知識)の知恵化のプロセス」というテーマに絡めたらちょっと面白いかも、と思ったけど、思うだけで保留。

もひとつ思うのは「無視された情報の行方」という観点か。情報を切り取り再構成することを関心事として扱うデジタル文化の側面を見事に表す現象とは思うけどやはり関心は、無視された情報の持つフラジリティ。これも保留です。時間ないのてイヤですね。