50の地図。

http://mypage.naver.co.jp/encore/50.htm

これちょっと自頁の「dic.」でやってみよかな。と思ってみたりして。1個たまたま一致してた文章あったんで、それで4つ乗っけてみました。『50』。

http://park12.wakwak.com/~asap/dic/

「テキスト」は過去作で水増しして「友達」「片想い」「リストカット」追加。何時になったら埋まるやら、ですが、まぁ長い眼で見てやってくださいな。

 断片1。


某所で飛び出したカレカノ話について。つかなんつか。読んでない方、或いは観てない方、ネタバレ入ります。

『彼氏彼女の事情』-津田雅美
『彼氏彼女の事情』-GAINAX。カントク庵野秀明

あのアニメの何が衝撃だったてあの第3話の展開だったりする。

先ずは優等生の持つある種のコンプレックス、その後で思春期特有の二面性を、それらを庵野独特の演出(スピード感ある台詞と静止画像×鷺巣詩郎の音楽の対比)で以ってメリハリつけて描写する。そして肝心なのはオチだ。雪野による右ストレート。

最初は3話連載だったせいかもしれないけど、はっきり言って、このシーンでこのマンガ(アニメ)終わってると思うんよね。つか、描くべきモノは全部描いちゃった感じ。少なくとも宮沢と有馬の関係性については。


宮沢を太陽と、有馬を月と形容して後に語られる関係性な訳だけど、そんな「陳腐な」比喩なんかよりずっとこの場面は鮮やかにふたりの関係を体現する。自らの二面性に苦しむ有馬をぶん殴ることで「これが本当のありま」と言い放つこの瞬間が全て。仮面被ろうがなんだろうが君は君で私は私でそれ以上でもそれ以下でもないつーかあなたも自分も素直になれよでないとそこから何も始まらないじゃん、て乱暴に要約するとそんな感じですか。


そう考えると15巻辺りの津田雅美は最初の方で鮮やかに圧倒的なテンポ感で解決させてしまった命題を重苦しさと過剰な繊細さで描き直してしまってる、という印象がある。けど結局のとこ、至るプロセスと空気感が違うだけで、導かれる結論は結局余り変わらないのよね。庵野秀明朝日新聞のインタビュか何かで「最初はシリアスさと軽快さのギャップが面白くてアニメやったけど、後に有馬の内面が邪魔になった」的なことを言ってた理由が理解る気はする。(何せ彼は重苦しい例のアニメを自己啓発セミナな祝祭の中で締めくくったカントクさんなのだ)。


話逸れたけどそう考えるとこのマンガでずるずると描かれてる内面云々とかて余り肝心ではない気はする。例えば芝姫と一馬のエピソードが軽さと適度な重さを巧いこと両立させてたりして、純粋に楽しめるとこを観ると、キャラ全員の「影」を綿密に描く必要はないんでないかな、という気はする。少女マンガて、ミーハーさを前提としたメディアて気はするしね。第一僕は、一馬や芝姫の闇なんて観たくないですよ。はは。

 断片1.5。

因みに当たり前の話だけど、上記のような命題の解決はフィクションだからこそ許容されるモノだったりする、てのは大前提ですよ。殴っただけでそゆのが解決するなら警察は要らない。ただ、殴られるくらいの衝撃がきっかけくらいにはなる、て方がリアルかもしれない。

だけど何度だって言うけど、僕は少女マンガにリアリティは求めていないのであります。昨日「有り得ないだろ?て展開だから少女マンガは読めない」て言うひとがいたけど(勿論男性です)フィクションて有り得ないからフィクションなんじゃないですか。思うに「有り得ないけどアリ」てのを描くのがフィクションの役割なんだ、と最近なんとなく理解ってきたのであります。「ぼく地球」のフィクション論争とか読みながら。

後はその「アリ」具合をいかに現実に回収してくか、てのが僕の中での今の裏テーマです。とりあえずその辺りの結論は保留。保留はするけど、これてポピュラー芸術全般に言えることですよこれは。絶対。