パクリについて久々に本気で考えてみた。

http://music8.2ch.net/test/read.cgi/musicjm/1180397184/131-

うわーこの展開、香ばしい!香ばしすぎ!久々にきましたこの香ばしさ!やはり、パクリの話題はAIRにはじまり、AIRに行き着く輪廻なんだね。

と、ウォッチャー的に思い楽しみつつもやっぱり面白くない。僕が03年に書いた論文(http://mmcs.edhs.ynu.ac.jp/~askaw/sotsuron/)や、06年に別冊宝島に書いたオレンジレンジ全肯定(そもそもJ-POPの歴史はパクリの歴史である)テキストの意義は、一体なんだったのか、と。

話されてる内容は、03年の論文の序で使った99年のこのスレとなんら変わってない。いや、むしろ今のほうが、議論が感情的に過ぎて、建設的ではない。(前のテキストが建設的だったかていうとまた微妙だけど。)
「☆ニルヴァーナをパクッたAIRの曲聴けます☆ 」http://members.tripod.com/motoneta/pakuri/airpakuri.html

03年の論文は、僕が車谷(とちょっとだけ石田)を全面弁護するために書いたものであり、一部の心あるKIDSにはその意図が伝わり、部分的に話題にもなった。スパイラルライフ関係のオフ会で「あ、あの論文の作者なんですか!?」と話題になることだってある。

あの論文のメッセージは、「パクリ、イイじゃん!」てその一言に実は集約されるわけだけど、所詮、1論文でそういうメッセージを世の中に波及させるのは難しすぎたのかもしれない。大海に石ころを投げてみました、程度か。

別冊宝島『「パクリ・盗作」スキャンダル読本』も、編集協力に格上げ(?)された栗原さんが全開で、相当文化的な内容だった。けど、にちゃんねらーの活字離れが影響したのか、中身の面白さ以上の面白いことにはならなかったてのが真実だろう。その後あった一連の騒動も、そっちの騒動自体に目がいってしまう結果になり、本の存在自体は忘れられてしまった。

オレンジレンジは、どういうわけか、すっかり非パクリ路線へと「転向」してしまったし、世間でのバッシング(とゆうか不毛な議論)は止む気配ないし。どんどんどんどん、時代は悪い方へ悪い方へと向かってる気がする。ドロボー歌謡曲時代のあのおおらかさは何処へいったのか、と栗原さんがこぼしてた気がするけど、つまりはそういうことかもしれない。

じゃぁ、どうすればいいんだ?と思うと、はたと考え止まってしまう。何故って?祭りは局所的に起きてるのに、かつぐべき神輿がみあたらないのだ。例えば「はっぴいえんど」「B'z」「オザケン」「倉木」「民生」「ミカン」という具合に、一定の影響力があり、知的にパクリを実践してるアーティストが、今どこ見渡しても見当たらない。純粋な動物であるAIRをかついでみたところで、明らかに弱い。そういう具体的サンプルをもってしないと、世間は納得しないだろうし、世間を納得させるための材料を投げられないんである。菊地成孔氏や近田春夫御大が、オレンジレンジを大絶賛してた頃は、今思えば良い時代だった。

どうも、この問題に関して言うと、ギョーカイ全体がキレイにキレイにやろうとしすぎてる気がする。松本零士槇原敬之の騒動や、文化庁の賞受賞絵画の問題のアレとか、パクリとも違うけどおふくろさんの1件とかが微妙でなく影響してるのかもしれない。しかし、サンプリングアートな文脈とか、異化の美学てのは、この3つの問題とは全く別の次元にあるはずなのだ。

そんなこんな。真っ黒にやられても困るのだけども、かと言って今の状況はまっさらすぎるし、ほとんど何も語れない状況だ。もとの流れの田沼恋しき、じゃないけど、大きな流れがここらで起こらないと、キレイな水だって腐ってしまうような気がしてならないのである。