記号的クラシック入門としての「千の風」。

ある日の昼、会社近くの定食屋で、美味い大根と豚角煮定食650円を食べていたとき。

TVでNHKの適度なぬるさのバラエティ番組をやってました。

ちらちらとそれ見聞きしながら食べてたところで、おばちゃん3人来たりてご飯を頼みました。

彼女らはTVに注目。

「あれ?なんだっけこのひと、あきかわなんとか。」
「この曲すごいわよねぇ。」
「声の通り方が違うわよねぇ。」
「だって、テナー歌手でしょー。」云々。

この時点で僕がニヤリとしてしまったのは、TVで私のお墓の前で泣ぐごはいねーがーとか歌ってた人間が、

(歌詞はJASRACに怒られるのやだから適当に書いてます。)

さっきまで古畑任三郎の風貌で、もののけ姫細川たかしを熱唱していたからであります。


そう、それ、物まね芸人。


このときに、一気に腑に落ちたんです。つまり、秋川雅史氏は、きわめて正しくポップな存在なのだ、と。

つまり、彼の音楽には、世の皆さんが、「これはおクラシックなのだ」と判断できる記号さえあれば、そして結果聴いたひとが「おクラシックだってわかるわたしって文化的」とこれまた記号的に結び付けられれば、もうそれで十分なのです。

すごいのは、誰が真似しようが一瞬で「これはおクラシック」と判断できるというToo Muchな記号をまとうことで独自に(狙ってそうしたかは知らんけど)生み出しちゃったことでしょう。これは、そんじょそこらのクラシック歌手にはできません。良い悪いじゃなく、音楽としてディメンジョンが違う。

秋川雅史氏のその歌唱は、ちょっとクリーンな音色の長尺のギターソロがデジタルなアレンジに乗って聞こえるとB'zの松本だと分かるのと一緒です。

千の風になって」という曲において、クラシック歌唱としてのアイデンティティは関係ないことなのです。だって秋川雅史氏は「クラシックそのもの」ではなく「クラシックという記号」を追求しているのだから。物まねされるのだって、むしろ彼にとっては誇りでしょう。だって、コピーしやすいというのは、究極の記号である証です。

例の曲が、某所のカラオケチャートで1位ってみてなんか驚いたけど、その直後、ぁぁそうか、と納得しちゃったのもそこです。かつて世の女性が記号シンガーである華原朋美やglobeの超高音に挑戦したのと同じように、今、世の男性は、秋川雅史氏という記号性にチャレンジしているのかもしれない。

秋川雅史氏、すげぇ。小室哲哉に肩を並べてようとしてるよ。

という訳で、今日この日そんなことに気付いた僕は、秋川氏のよりディープなファンになりました。リンゴ追分、最高!!カップリングだけど!