遠く続く星の航跡は鳥が鳴いた涙の痕か〜賢治とアトム。

オーボエ吹きの友人が『よだかの星』のオペラの楽士をやるてんで門前仲町まで行ってきました。言うまでもなく宮澤賢治の童話が原作。

はじまる前に、よだかの星の話のすじの話をしてたら、それアトムじゃない?と言われた。……星に突っ込み燃え尽きて終わる。確かに。正確にはよだかもアトムも「星に突っ込む」ではないんだけど、似てるね。ヒントにしたのか?因みにアニメの最終回のエピソードは手塚の原作にはないはず。

話逸れた。手塚じゃなくて宮澤賢治。よだか。ちゃんと話を追ったことはなかったけど、典型的なケンジイズムだなぁ。醜い被差別的主体がキレイな穢れなきモノへの憧憬をフルに発揮し、願望をかなえ消失(そして世界と調和)するという。春と修羅の世界観に通じると何処かで誰かが書いてたと思うけど、まぁそうですな。分かりやすい。

ここで重要なのは、アトムは人類のために犠牲となり身を燃やす(家族やお茶の水博士のことを心に思いながら)のだけど、よだかは、あくまで自分の願望のために自己犠牲を図るというこの違い。しかもよだかは家族を捨てて、何の大義もなく、鷹により追放された己を呪うかのように、反対する弟の忠告も訊かず、結局身を燃やし星となるのだ。どちらにも日本的なロマンチシズムがあるけど、よだかの消失は、いわば利己的なモノだってことは注意したい。アトムはメタファーとしてカミカゼになりうるけど、よだかはカミカゼにはなりえない。どちらかというとイカロス。但し、翼をなくし墜落し太陽にはたどり着けなかったイカロスと違い、よだかの「星になる」という個人的な願望は叶えられるのだ。

何時の間にアトムが話に戻ってた。アトムも確かにロボットであるがゆえに被差別的な存在で、彼は人間のコミュニティに尽くし正義を全うすることで、アイデンティティを確立しようとするけど、よだかは、名前を守りながら、コミュニティから存在を消すことでアイデンティティを守ろうとする。乱暴にいうけど、両方とも現代の日本人のメタファーとしては有効な気がする。というか乱文書きながらしてきた。結局、複雑化した世の中を生き延びるには、その社会と折り合いを受け自己犠牲承知で調和するか、自己完結して自分の美学を貫き通してその立場を全うするかしかないてことだ。僕がどっちのタイプの人間かって?さぁ、それは星に訊いてみないと、きっとわかりませんな。