パクリの心象風景?

『Jポップの心象風景』-烏賀陽弘道、文春新書。

著者の人が元AERAの記者さん、てのと、中身が美学というよりか民俗学+日本人論よりてのとで、スルーしても良いかなと思ったのだけど、「日本的<模倣文化>の象徴」という、B'zを取り上げた1章が目次にあって気になって買ってみた。(よくよく見たら、別冊宝島の『音楽誌が書かない音楽批評』に連載されてた記事が元らしい。へぇ。)読んでみたら、あえて乱暴に要約すると「日本人の文化てのは古来より元々が模倣文化だし、輸入文化で外国の真似してきた土壌がある。そして日本芸術の伝統として<模倣>を引き継ぐ慣習があり、それで文化を発展させてきた。ゆえにB'zの洋楽からのあからさまなパクリは、似ていれば似ているほど日本人の心性に合い、パクリと揶揄されようと(むしろ巧くパクっているからこそ)売れ続けている。」という論旨。なるほどなるほど。

一読した感じ、頷ける部分(日本文化は輸入文化である、模倣文化である云々。山田奨治氏辺りが展開した議論に繋がっている感じ。)と突っ込みどころのある部分(だからB'zはリスナーに受け入れられる/売れる、という結論への接続。)とおもっきし二分されてる印象を受ける。特に思うのが、リスナーや音楽屋の中での邦洋格差が解体されていきつつある現在、どれだけ「洋楽に似せるほどリスナーに受ける。」という図式が成立するか、だ。

先ず、世間のパクリ議論を眺めるに、この辺り、リスナー層がおもっきし断絶していて、そゆ「洋楽=オリジナル、Jポップ=コピー。」て硬派に思っている層と「洋楽もJポップも音楽は音楽で関係ないじゃん。」て層と「そもそも洋楽なんて聴かない国内自給自足リスナー。」層に大別されてる気がする。しかも、各年代によっても大きくこのそれぞれの層の占める割合てのが違う、てのが現状だと思う。筆者は1963年生まれ、ということで、70年代後半の「洋楽を真似ることを<諧謔>と呼ぶ」(宮台的解釈)時代を突き進んで生きてきた訳だけど、そんな彼の持っているであろう「邦洋格差」的価値観と、90年代後半から積極的にポップスを聴き始めた年代とでは、価値観の開きがあるんでなかろうか(特に渋谷系以前と以降で)。とかなんとか。恐らく、B'zを聴いてる層が大体、そこに当てはまる訳だけども。

そして、音楽実践者、例えばミカン君たちを例にとれば、元ネタ=洋楽である必然性なんて何処にもなくなってしまってることに気付かされる。彼らがぱくるのは、洋楽であり、現在のJポップであり、ドリフであり、任天堂である。彼らは、90年代を通り越して、渋谷系が誕生しHMVタワレコが台頭しソフト数が圧倒的に増殖しFM番組は洋楽とJポップを混ぜこぜに売り上げランキングをカウントダウンする、そんな状況を経て、とっくに音楽の実践者の間でも邦洋格差なんてモノが解体されつつあるていうのを示す良いサンプルだろう。明らかに世間様に過剰反応されたなっちのパクリ疑惑に至っては、Jポップの歌詞や日本語の詩/散文のパクリでほぼ完結している。更に言うと、渋谷系な音楽実践者や、渋谷系以降の音楽実践者は、元ネタに洋楽を主に扱いつつも、平気でJポップも元ネタにしてるし、それがリスナーに受け入れられていたりもする。この時点で2005年現在、「輸入文化としての(洋楽をまねぶ)Jポップ」「だからこそ売れる」という単純化された価値観は通用しづらいのではないのかな。とか思ってもみたりなんだり。もっとボーダレスなんでないかな。その辺りって。

だけど、その辺りの突っ込みを除けば、「<パクリ>だからこそ売れる」「パクリは日本人の心性に合う」という烏賀陽氏の提言については、興味深いものと思うし、議論の良い材料になると思う。そして、その「受けやすい」という特性がある反面、パクリがある一部のリスナー層で過剰反応され、叩かれるという二面的な図式に関しても更なる議論の余地がある気がしてならないと思ったりもしたそんな読後。結局、「受けやすさ」がゆえの嫉妬心、反発心が一部で紛糾してるだけなんじゃないか、とかとか。(出る杭打ってスターをスキャンダルで叩くのが好きなのもまたこの国の人間の「国民性」か?)まぁそうなると、結局結論は、「日本人て根本的に元が外国文化だろうが国産品だろうが<パクリ>萌えな特性持ってるのよねー。」なんて、くりはら氏が以前おっしゃったよな結論に戻ってきてしまうのでしょうか。あはっは、幾ら書いても辿りつくZEROと書いたここに……てな殺し文句なフレーズですな。まったく、どうしましょ(笑)。


因みに、読み物としては非常に面白かったです。こゆ突っ込みどころがありつつも、跳躍間のある深読みな文章には、何かどうしても抗えないモノがある。にひ。