橋を渡る

 島には、何十人かの人間と、それよりかはずっと多い猫が暮らしていた。Rは集落からはちょっと離れた小高い丘の上に部屋を借りて、静かに暮らしていた。どんな暮らしをしているのか、僕が直接知る術はなかったのだけど、何人かの共通の知人を介して、なんとなく彼女の暮らしぶりを知ることはできた。少なくとも、彼女は独りでそこにいて、月に2回フェリーに乗って、2時間ゆられて本土にたどり着き、半月分の食料と画材と、スーツケースに詰め込めるだけの本を買って島へと帰っていく(おそらく、これは半月では読み切れない量だ、と、友人は僕に説明した。)。食料の中に、猫の食料とおやつを紛れ込ませるのも、欠かさない。若い女性一人が持つには明らかにつらい重量の荷物を抱えながら、彼女は次のフェリー便で、そそくさと島へと帰っていく。おそらくは、その短い買いだしが唯一の、彼女と「社会」との接点だった。

 僕は東北の大学に通っていたので、島の界隈に知人は多かった。彼女は僕の前から姿を消したけども、僕と彼女がかつて属したコミュニティの近くに居を構えることを決めた。それが偶然か、狙ってそうしたのかは分からないけど、彼女には元々「そういう」志向性があったのは確かだ。つまり、決して向こうから寄りつこうとはしないけども、かといって距離を一方的に引き離そうとはしない。直接つながるのではなく、何かを媒介して、誰かと緩やかにつながることを好む。彼女は部室のすみっこで、ずっと本を読んでいて、僕たちは彼女の5メートル脇で馬鹿話に花を咲かせ、そして時々彼女に本を貸したり、酒を渡したりした。彼女は僕たちと接点を持つことを一見嫌っていたけど、そういうコミュニケーションに首を横に振ることは、一度もなかった。本は必ず完読して翌日にきっちりと返してきたし、酒は時間をかけてゆっくり飲みほして、僕らがもう一杯つぎにくるのを待っていた。

 Rが島に住んでいる。僕とRの関係性を知っていた友人から連絡がきたのは1年半くらい前だったけど、すぐにそこに向かう気はおきなかった。たぶん彼女はそんなことを望んでもいないし、僕は僕で新しい生活に慣れるのに精いっぱいな時期だった。時間がたてばたつほど、なんとなく今更動くのもおっくうになり、理由をつけては大学の友人の幾つかの誘いも断っていた。そんな時期だったから、彼女から絵葉書が届いたときには、心からびっくりした。丘の上から無造作に1枚写真をとって、無造作に印刷して、ぶっきらぼうな字で住所と名前だけが書かれていた。住所はえらく簡素なもので、これで本当に届くのかと不思議になるくらいだ。Rらしいな、と思った。日々の生活の1つ1つに無駄が発生しない土地を、彼女は選んだのだ。

 フェリーが岸壁について、ゆっくりと島に降り立つと、まず猫の姿を探した。しかし、猫は一匹もいなかった。間もなく日も暮れようとしていたし、灯りも数えるほどしか点いていなかった。フェリーから降りたのは僕一人で、港には、迎えの人も観光案内の人も、漁師も誰もいなかった。リュックから、絵葉書を取り出して、なんとなくの目星をつけて、僕はゆっくりと島の中心へと歩き始めた。

 狭い村だから、誰か一人つかまえて場所を聞けばすぐに着くだろうと思ったが、薄暗い集落に人の気配はなかった。いや、家の灯りはついていたので、人はいるはずなのだけど、人の気配というものがなかった。人どころか、猫すらも見かけることはなかった。何件か、家をノックしてみた。しかし、返事はない。控えめながら灯りが部屋を灯しているのに。しかし、人影らしきものは、窓からは確認できなかった。あるいは近くで集会でもしているのかもしれないと思ったが、そんな設備はどこにも見つけることはできなかった。集落はそれ以上そぎ落とすことができないくらいにシンプルなものだった。閉まっている郵便局が1つあり、色あせた郵便ポストが無造作に置かれていた。ポストの脇をみると、集配時間のメモに時間は全く書いていなかった。数少ない街灯が鈍い光を発している。ため息をついて、ポストの脇に腰かけた。リュックにいれていたマフラーを取り出して首に巻いた。

 何枚かの絵葉書を持って、Rはそこにやってきた。いつのまに目を閉じてリュックに寄りかかり眠っていた僕の頬を、彼女は遠慮なく平手ではたいた。朦朧とした意識の中で彼女を確認する。彼女は「ああ。」と短く言った。「おはよう。」と試しに言ってみた。「おはよう。」と彼女は答えた。きちんと返事が返ってきたところをみると、彼女の機嫌はどうやら悪くないようだ。僕の存在などおかまいなしにポストに絵葉書を放り込む彼女をみて、僕は安心した。

 集落から森を抜けて15分ほど歩くと、彼女の住む小屋があった。誰がどんな目的で建てたのかは分からないけど、とにかく年季の入った、頑丈そうな小屋だ。そんな僕の考えを見透かしたのか、彼女は短く「別荘だよ。」と言った。「誰の?」と返すと、彼女は短く頷いた。誰か資産家の別荘だったのか、或いは彼女の親戚の別荘だったのか、もしくは今の彼女にとっての「別荘」なのかは分からなかったけど、彼女が別荘だといえば、そこは別荘なのだろう。この家の出自についての問いかけに関心をすっかりなくしたRは、やかんでお湯を沸かし始めた。

 灯りをつけてないのだけど、ガスの灯でぼんやりと部屋全体が照らされた。窓からは月明かりが入り込んでいて、謙虚に部屋の中を照らしていた。そこには無数のカンバスがあり、無造作に放ってあった。たぶん、彼女に聞くと、「放ってない。片してあるよ。」と言うのだろう。部屋の散らかり具合からすると、僕の人生のトップ3に入る部屋の乱雑さだった。ちなみに第1位は、大学時代にはじめて足を踏み入れたときの、彼女の部屋だ。その乱雑さに、僕はひそかに安心した。彼女は元気にやっているようだ。

 1枚の絵が目に入った。ひときわ大きなカンバスに描かれていたからだ。しかしそれだけではなく、妙に引き込まれるものがある絵だった。満月の夜の海を描いた絵だ。豪胆なタッチで描かれた油彩画は、決して控えめとはいえない自己主張を持っていった。どちらかというと謙虚さを売りとする彼女の画風からすれば、それは明らかに異色だった。しかし、細かい手癖をみると、間違いなく彼女の手によって描かれたものだった。

 真四角のカンバスに浮かぶ丸い大きな月。あらぶる海にまっすぐ、光を落としている。光は波によって散らされ、揺らめきながらもカンバスの端まで続いている。何重にも分厚い絵の具に重ねられた海に浮かぶ一本の光。そこには決然とした意思があり、迷いはなく、優しさの欠片もなかった。

 明けてあった窓から、1つの塊が落ちてきた。にゃあ、と短く鳴いたところで、それが猫だと分かった。猫は僕を一瞥すると、何の関心もなく、小屋を突っ切り、向かいの窓へと向かい、外へと出て行った。すると、それを合図にするかのように、何匹かの猫が、やはり同じ窓から落ちてきて、僕を一瞥し、髭を揺らしながら悠然と向かいの窓に向かい、そしてその窓から外へと飛び出していった。彼らは、特に何をするわけでもなく、しかし何かを確かめるようなそぶりで、静かに、しかし堂々と小屋を横切って行った。向かいの窓を覗いてみると、猫はすっかり姿を消していた。辺りの視界は開けているから、生き物がいる気配が全くないのは解せなかった。猫たちは何処からきて、何処へ向かうのだろう?

 Rが暖かいお茶を持ってきた。Rは僕の隣にちょこんと座り、じっと僕の目の前にある、大きな月夜の絵を見つめた。ササキさん、と彼女は言った。彼女にこう呼ばれるのは、一体何年ぶりのことだろう?Rはあの頃と同じように、僕に寄り添い、白い息を吐き出して、ただ静かにまっすぐ、彼女の正面を見つめていた。あの頃と違うのは、視界の先に、絵があることだ。

 「月のハシ」と彼女は言った。月の端っこのことからと思ってじっと絵の月をみつめてみたが、どうやらそれは見当違いだったようだ。彼女は海の上に浮かぶ光の筋を指でなぞった。ああ、月の橋。と僕は言った。彼女は頷いた。そう言われると、海の上のまっすぐな月光は、海を渡した一本の橋のように見えた。

 「ササキさんは、猫がどこからきて、どこに行くんだって思う?」彼女は言った。まるで僕の考えを見透かしたように。分からない、と僕は言った。小屋の周りには、生命の気配はすっかり消え果てていた。風が強く吹き、その度に小屋を音を立てて通過した。それなりに寒かったが、Rは全く意に介していなかった。風が吹く度、通りたければ通れ、とでも言いたげな目で、じっと風の吹く方を見つめた。

 「猫は、橋を渡るの。」と彼女は言った。月の橋を、猫は渡る。猫は、その時を待っているの。猫にとって、この島は、通過するためのものでしかないんだよ。何処からきたのかもわからないし、何処にいくかも分からない。けど、橋を渡ることは決まっているの。彼女はゆっくりと、小さく、しかし明瞭な声で僕に囁いた。

 彼女は続ける。「海と月が、橋を作るんだよ。海がぶわっと持ち上がって、いつか私たちを包み込む。そのとき、橋は、私たちの行くさきへとつながるんだ。光と波が、橋を作るんだよ。私は、それをつなげることはできない。だから、彼らは、私の前をずーっと通り過ぎるだけなの。私にできるのは、それをヒョウショウすることくらい。」ヒョウショウと言うRの不格好な発音に、僕は「表象」という漢字をそっと脳内であてた。「彼らはこの島で、ずっとそれを待っている。私は、待っている猫たちにご飯をあげる。猫はそれを当り前だという風に受け取って、何も言わずに食べて、私をちらっと見ただけで、遠くに去っていくんだ。」

 それだけ言うと、彼女はちちちと舌を鳴らした。何処からあらわれたのだろう。窓には、一匹の猫が目を光らせていた。すとんと降りて、猫は僕の隣にいる彼女の元へと向かった。僕と、彼女と、猫がいる、小さな小屋。僕らは、じっと目の前の絵を見つめている。

 「私も一緒にいっていいかなあ?」と彼女は訊いた。なんと答えていいかは正直分からなかったけど、僕は「いいんじゃないかな。」とシンプルに答える。彼女はシンプルな答えを求める性分なのだ。彼女は唐突に、僕の手をつないだ。猫は、いつのまに僕らの視界から消えていた。彼女が僕の手を触れるのは、確か2度目だった。彼女は窓の方へと歩き出し、僕はひきずられるように手をつながれたまま同じ方向へと向かう。彼女は手を離すと、すたん、と胸くらいの高さの窓の枠に上り、そして外に飛び降りた。僕は、半身を乗り出して、外を観た。丘の向こうには、真黒な海が広がっていて、Rの書いた絵よりはもっともっと高くに、月が昇っている。月はまん丸と僕らを照らしていた。

 Rが手招きをする。何匹かの猫が、彼女の近くにやってきた。一体彼らは、どこに潜んでいたんだろう?僕は窓から半身乗り出したまま、そこから動くことはできなかった。「ササキさんは、猫がどこからきて、どこに行くんだって思う?」さっきのRの問いが、頭の中で響き渡った。Rと猫は、何かに魅入られたように、じっと海を見つめている。

 「ササキさん、待っててよ。すぐ、そこに戻るからね」

 Rは後ろに振り返り、小屋の窓にもたれかかる僕にそう言った。海はあくまで静かで、月はあくまで真ん丸だった。僕はと言えば、もう一歩もそこから動くことができなかった。それだけ、あのとき見た光景は、美しすぎたのだ。僕が介在する余地が、まるで欠片もないくらいに。

 丘の下で集落の灯りが見えた。風が島を通り抜ける音を僕は聞いた。窓枠に腰かけた僕は、身動きひとつとれず、猫に囲まれて手招くRの姿を、じっと、じっと見つめていた。